思考法に関する参考書を読むと必ずといっていいほど、論理的な思考の重要性を強調している。一方では、ラッセルのパラドックスやゲーデルの不完全性定理が紹介されて、論理的思考では世界のすべてを証明することはできないのだなどといわれて、論理ってあんまり頼りにならないのだろうかと不安になったりする。
しかし、論理とは、本質的にはすべての可能性を考えつくすという単純な作業なのだ。すべての可能性を考えて決断したのなら、その決断は信頼の置けるものだ。たとえば、箱の中の玉の色が、赤か白だけだと分かっていたとする。その場合考えられる可能性は玉の色が赤か、白かの二通りしかないので、玉の色が赤でなければ、それが白であることは確実だ。 しかし、実際には、すべての可能性を考えつくすには選択肢が無限に多くなるので、起こりえない可能性については、枝狩りをしなくてはならない。その枝狩りの過程で、見落としが発生して、一見論理的に組み立てられたように見える議論が、完全に間違っていたという現象がおきる。たとえば、次のようなクイズがある。 荷車を前と後ろで協力して動かしていた二人がいた。前の人に大変ですねといったら、「後ろで息子が押してくれるので助かります。」と答えた。そこで、後ろの息子に「お父さんの手伝いをして偉いですねというと、「いえ、あのひとは私の父ではありません。」と答えた。なぜだろう。 答えは、前で荷車を引いていたのはお母さんだったのだが、これも、起こりえる可能性をすべて考えていないためにおきる錯覚だ。 すべての可能性を考えつくすという観点から論理というものを考えると、論理は十分に信頼の置けるものなのだ。理屈っぽい人の話が当てにならないのは、単にその話が非論理的であるからに過ぎない。 また、冒頭のラッセルのパラドックスやゲーデルの不完全性定理のようなものは、記号で論理体系を組み立てるときにどうしても自己言及命題というものが入ってきて、その命題には論理法則が適用できなくなるのが原因ではないだろうか。つまり、論理の法則というよりは、集合を内包的に定義するときの記号の性質が問題で、論理法則そのものに矛盾があるというわけではないと思っている。 このように、論理の本質とはすべての可能性を考えつくすということだから、複雑な推論を重ねて導き出した結論は、常に、この「すべての可能性を考えつくしたか」という真実の鏡に照らして見なければならない。
by tnomura9
| 2007-02-12 19:03
| 考えるということ
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