管理人が脳や学習法に興味を持ったのは、数学がどうしてもできなかったからだ。どうして、級友はやすやすと問題を解くのに、自分には解けないのか不思議で仕方がなかった。級友の思考方法と自分のそれとどこかが違っているに違いない。そのどこかが分かれば、自分も数学ができるようになるのではないかと思って発想法の本などを読み漁ったが、はっきりした答えは得られなかった。
一口に思考法といっても、どうするかという方法論はいろいろあるが、そもそもそれが何であるかとはっきり示したものに出会ったことがない。思考法というものがあいまいな証拠に、全ての分野で優秀な人というのはいないし、頭の切れるひとが、必ずしも事態を収拾できるわけではなく、他の人の方がうまくやってしまう事例も多い。 それでも思考することが大切なのは明らかで、考えないで問題解決はできないのだ。したがって、有効な思考法をもつということの重要性は強調されすぎるということはない。 それでは、思考の本質とはなんだろうか。それは、問題解決のために迂回路を見つけるということだ。直球で問題が解決できれば、思考が必要になることはない。直球で問題が解決できないからこそ、迂回路を探さなければならないのだ。 さらに、迂回路の候補を挙げるだけでなく、そのうちのどれが解決に結びつくのかを評価できなければならない。そのさいの有力な武器となるのが論理力なのだ。論理力というと三段論法などの論理法則を思い浮かべるかもしれないが、それだけでは、役に立たない。論理の本質とは、起こりえる全ての可能性について検討することなのだ。 たしかに、全ての可能性を考えると無限の選択肢ができてしまうので、きりがない。したがって、そのうちの起こりえない可能性をすばやく消去することは必須だ。しかし、その枝刈りの過程で解決に結びついたはずの選択肢を捨ててしまうこともある。数学が得意でも、現実の問題の処理に失敗する例がある理由だ。孫子の「算多きは勝ち、算少なきは負ける。」という言葉は含蓄がある。 結局、思考力とは、問題解決のための選択肢をできるだけ多く考えつく能力と、そのうちから、解決のために必要な選択を適切に選ぶことのできる能力の二つの要素からなっていることがわかる。この二つの要素に注目していろいろな事例を検討すると、どうして成功したのか、どうして失敗したのかの要点が見えてくる。 フィンランドメソッドでは、先生は生徒に「ミクシ(なぜ?)」攻撃を仕掛けて、事実や意見そのものよりも、その理由に注目させる。また、生徒が作成した作品の良いところ10個と、悪いところ10個を上げさせ、なぜそう思ったのかを討論させる。その過程の中で、結論にいたるプロセスを意識させ、結論の必然性や他の可能性がないかどうかなど思考に本質的な知的活動を誘導することに成功しているようにみえる。 フィンランドメソッドのような革新的な方法がなぜフィンランドで全国的に採用されたのかは、わからない。フィンランドメソッドでは、互いの目を見て話すよう指導するが、フィンランドの伝統にはそれはないので、フィンランドメソッドがかの国の伝統的な考え方というわけでもないようだ。しかし、このようなトレーニングを受けた子供たちが成人したらどういう可能性がでてくるかと思うと楽しみな気がする。フィンランド関連株は買いかもしれない。
by tnomura9
| 2006-11-10 08:07
| 考えるということ
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