昨日、テレビを見ていたら、ラマ教の僧の瞑想のときの脳の活動を、光トポグラフィーで観察する実験をやっていた。瞑想している僧の脳は、右脳の感覚野の活動が大きく、左脳の言語をつかさどる部分の脳や、前頭前野の活動が低くなっていた。
座禅のときは、何も考えないように腹部に気持ちを集中するが、ラマ僧の瞑想の入り方は、はじめに、手を上げたり歩いたりするときの自分の体の感覚を意識して、それから座って瞑想に入っていく。その後も、無念無想というよりは目を閉じたときに感じる様々な感覚に意識を集中するらしい。 前頭前野の興奮が低いということは、心がリラックスしていることを示しているらしい。感覚に注意を払うことによって心が静まるということだろう。 悩みを抱えていた人が、水槽の中の熱帯魚の動きを眺めていたら、気持ちが軽くなったとか、ボランティア活動をしたり、子供と遊んでいるうちに苦悩が軽くなっていたという話は良く聞く。ストレスというのは脳が外界から切り離されて、脳の中の世界に閉じ込められたときに起きるのではないだろうか。脳を苦しみから解き放ってやるためには、脳に身体や外界からの刺激をふんだんに与える必要があるのではないだろうか。 物事を良く考えるためにも、心が平静であったほうが良い。勉強に疲れたときは、自分の体や外部からの感覚に注意を向けて脳を休めることも大切だろう。
by tnomura9
| 2006-02-27 18:20
| 考えるということ
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