1変数述語論理と集合

1変数の命題関数に関する述語論理は、集合と相性がいい。

述語論理で扱いたい対象の集合 D を領域と呼ぶことにする。D は一般的な意味の個体の集合だ。たとえば動物の集合のようなものだ。また、領域 D の要素を個体と呼ぶことにする。領域 D が動物の集合のとき、ソクラテスは個体だ。論理学の命題は記号(表現)であるから、これらの個体を表す記号が必要だ。これを a, b, c, .. などで表すことにして、個体定数と呼ぶことにする。個体定数は記号(表現)だ、つまり一般的な感覚でいう(文字)記号である。これらは記号内容として領域D の要素である個体を指し示す。すなわち、個体記号 a の意味は領域 D の特定の個体である。

論理学を考えるときに、命題を記号表現の列としてとらえ、その命題の意味を命題の記号内容として捉える記号論的な考え方は、命題論理学の意味論を考える上で重要だ。ところで、個体変数は個々の個体を特定しているが、それ以外に、個体一般を指すような記号表現も必要になる。個体変数 x はそのような記号表現である。x は特定の個体を指し示しているわけではなく、領域 D のどの個体でもいいが一個の個体を指し示している。したがって、x の意味として領域 D のどの個体も当てはめることができる。

「ソクラテスは人間である」という命題は、ソクラテスという個体の性質が人間であるということを意味している。この命題の「人間である」という部分を取り出したものを述語という。この述語単独では意味を形作ることができない。述語は主語である個体と組み合わされて初めて意味が生まれる。そこで「人間である」という述語を A という記号で表すことにし、ソクラテスという個体を a で表されているとすると、A(a) は「ソクラテスは人間である」という命題を表していることになる。A(a) はソクラテスが人間であるという意味を指し示しているが、これはまた、その主張が真であるか、偽であるかを判断できる命題でもある。A(a) の場合これは真である。論理学では個々の命題の内容よりもその命題が真であるか、偽であるかにだけ焦点をあてることが重要視される。したがって、論理学では A(a) の意味はその命題が真である、または偽であるかということだけだ。

「ソクラテスは人間である」という命題の「人間である」という述語はソクラテス以外の個体との組み合わせを作ることができる。アリストテレスという個体を b で表すことにすると、A(b) は「アリストテレスは人間である」という命題になる。これも真である。そこで主語の部分を個体変数にすることを考えてみる。すると、A(x) という文ができるが、この文には真偽値を当てはめる事はできない。A(x) は x を個体定数 a や b に置き換えたときに初めて意味を持つ。A(x) は変数 x を任意の個体定数で置き換えることができるのでこれを命題関数と呼ぶ。

命題関数 A(x) はその意味としての真偽値をもたないが、領域 D の全ての個体について A(x) が真になるか偽になるかをテストすることによって、A(x) を真にする領域 D の個体を選び出すことができる。これは、領域 D の部分集合である。これを命題関数 A(x) の真理集合 A* と呼ぶことにする。ひとつの述語には、命題関数 A(x) が対応し、命題関数 A(x) には真理集合 A* が対応する。したがって、「人間である」のような述語の意味を、真理集合とみなしても良いが、これは統語論から直接的に導き出される意味というよりは、間接的な操作により得られる意味である。また、命題関数 A(x) は述語と同一視される。

ここで述語論理で使う記号とその意味を対比させてみる。

領域 D ---> 論理学を適用する個体の集合
個体定数 a, b, c, ... ---> 領域 D の個体を表す記号(表現)
個体変数 x, y, ... ---> それぞれを個体変数で置き換えるためのプレースホルダー
述語 A, B, C, ... ---> 領域 D の個体の持つ性質
命題 A(a) ---> 個体 a が性質 A を持つことを表す記号。この記号の意味(記号内容)は真偽値になる。
命題関数 A(x) ---> 命題変数を命題定数に置き換えることによって真偽値の意味をもつ記号列。述語と同一視される。また、命題関数は領域 D の部分集合である真理集合 A* を定める。

きちんと表現しようとするとごちゃごちゃとしてくるが、ポイントは、領域 D の個体が個体定数 a, b, c, ... で特定できることと、述語 A(x) が領域 D の部分集合を特定できることである。つまり、命題 A(a) が真か偽かという命題論理での議論が a ∈ A* という領域 D の集合の性質に反映されるということだ。命題論理の諸法則が、領域 D という集合に反映される。つまり、領域 D という集合における集合演算が述語論理の典型的なモデルであるということだ。集合の考え方と論理学とは相性が良いのだ。

さて、述語論理額と命題論理学のおおきな違いは、述語論理額では全ての x について P(x) であるとか、ある x について P(x) であるなどの量化記号を使った命題の記述ができることだ。それぞれ次のように記述する。

∀x.P(x)
∃x.P(x)

これは命題関数 A(x) とは違ってれっきとした命題である。つまり真偽値を問うことができる。∀x.P(x) については、命題変数 x を領域 D のどのような個体定数で置き換えても P(a) が真となる場合に真値をとる。したがって、P(x) の真理集合を P* とすると P* = D であることを意味している。∃x.P(x) については、P(x) が真となるような個体が少なくとも1つは存在するとき真となる。これを集合で表すと P* /= {} である。

さらに領域 D の個体が述語 A(x) の命題変数に置き換えられたとき必ず真または偽の値をとれば、領域 D の中で排中律が成立する。このとき¬A(x) の真理集合 (¬A)* は A の補集合になる。ここで考えないといけないのは、A(x) が必ず真か偽の値を取るかどうかは、述語 A の性質によるということだ。理論によってはラッセルのパラドックスのように命題 A(a) が真とも偽とも取れない場合があるかもしれない。しかし、それは述語論理の問題ではなく、リアルワールドの述語の性質によるものなのだ。

ラッセルのパラドックスについて言えば、それは集合の領域を「所属関係の定義された個体の集合」としたために、領域 D の個体が完全に独立しているとは考えられなくなるために発生したのであって、論理学の罪ではない。述語論理学が対象としているのは、領域 D の個体に相互関係がなく独立で命題 A(a) が必ず真か偽であるような排中律の成立するシステムだ。現実にはそのようなシステムは稀で、領域 D の個体間には複雑な相互作用が存在するのが普通だろう。そのような場合には論理学がそのようなシステムに適用できるかどうかはその相互作用の性質次第ということになる。

さて、ここまでの議論で述語論理の命題を命題論理のそれに置き換えることが可能になる。また、それを領域 D の集合の言葉に置き換えることができる。論理結合子を含む複合命題についてもそれを集合の言葉に置き換えることが可能だ。さらに複数の命題変数を含む命題関数についても領域 D を領域 D の直積集合に置き換えて議論すれば良い。いずれにせよ、述語論理学はそのまま集合の言葉に置き換えることができる。ただし、領域 D に排中律が成立するという条件は必須だ。

こうしてみると、領域 D に述語論理が適用できるかどうかについては結構領域 D の構造についての制限が多いことが分かる。少なくとも個体の集合としての領域 D の存在が必要だし、領域 D の個体どうしは、述語を充足するかどうかについて独立である必要がある。ある個体が述語を充足するかどうかが、その個体自身や他の個体のその術語の充足可能性に影響を与えてはいけない。しかし、現実にこのような条件が満たされることは稀で、領域 D の要素には複雑な相互作用がみられるのが普通だ。たとえば、素朴集合論の領域 D を「帰属関係が定義された対象の集合」ととらえると、この領域 D には論理が適用できない。むしろ、論理が適用できる領域 D は特殊な存在なのかもしれない。幾何学の定理が論理によって演繹されているために、数学の根底として論理学が論じられているが、それはたまたま幾何学の構造が論理と整合的だったからに過ぎないのではないだろうか。

論理と集合との対比を行ってきたが、ここには、「自分自身を要素として含まない集合の集合」というような述語はみられない。このような述語は集合を「帰属関係の定義された対象の集合」ととらえたために起きる副次的なものだ。論理と集合の対応関係を見る際には、このような述語を考える必要はない。論理=集合という議論はパラドックスなしに議論することができる。

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by tnomura9 | 2017-07-30 01:35 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)
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