ラッセルのパラドックスとは何か

「自分自身を要素として含まない集合の集合」を考えるとパラドックスになってしまうというラッセルのパラドックスには長年悩まされ続けてきた。数学の根底は集合の考え方と論理にあると思って論理学や集合を学び始めると最初のところにパラドックスが紹介してあり、足元から土台が崩れてしまう。

不満の理由はふたつあった。一つは集合を物の集まりという物と考える素朴集合論ではパラドックスが発生する理由が分からなかったこと。もう一つは公理的集合論では集合とは何かという視覚的なイメージが作れなかったことだ。

前回の「論理と集合」という記事でその不満がほぼ解決されたと思うが、宣伝のため、簡単にその要点をまとめてみた。

第1は、ラッセルのパラドックスは、素朴集合論の世界を「所属関係が定義された対象の集合」という対象のネットワークと考えるとらえ方が、その発生原因であるということだ。自分自身を要素として含まない集合の集合というような述語は、素朴集合の世界をこのような対象の所属関係によるネットワークでとらえることによる副産物である。つまり、「所属関係が定義された対象の集合」では表現力が不足して、その対象の集合の全ての部分集合を表現できないのだ。

第2は、論理は、数学的対象のうちそのべき集合が全て扱えるものにだけ適用されるということだ。論理とは集合演算の別名なのだ。ある数学的対象の集合のべき集合が完全に記述できないような体系には集合演算は適用できず論理は適用できない。素朴集合論を「所属関係が定義された対象の集合」ととらえる限り、そのネットワークでは対象の集合の部分集合を部分的にしか表現できないので、論理を適用することはできない。

第3はこのような見方によって「クラス」の定義が明確になる。「クラス」とは集合の世界を「所属関係が定義された対象の集合」のようなネットワークでとらえたときに、そのネットワークでは表現できなかった部分集合をさす。素朴集合論に論理を適用する場合、「所属関係が定義された対象の集合」に現れる「集合」に加えてそこに現れることのできなかった部分集合である「クラス」を合わせた「広義のクラス」に対して適用させなければならない。

集合、クラス、論理をこのようにとらえると随分視界がすっきりする。

たとえば、「自分自身を要素として含む集合」や「自分自身を要素として含まない集合」は「所属関係の定義された対象の集合」の中に存在し、対象はそのどれかであるはずなのに「自分自身を要素として含まない集合の集合」がパラドックスになるという不満に対しては、「所属関係の定義された対象の集合」というネットワークの要素である対象としてはそのような集合は存在しないが、そのようなネットワークの外に「クラス」として存在すると考えることができる。なぜなら、そのようなネットワークでは、そのネットワークの対象の集合の部分集合全てを表現することはできないからだ。「自分自身を要素としない集合の集合」は確かにネットワークに現れる対象の部分集合だが、それを対象のネットワークの内部で表現することはできない。

くわしい議論については前回の記事の「論理と集合」やその関連リンクに紹介している。

追記

ラッセルのパラドックスの深刻さは、論理と集合が表裏一体のものであるという直観が見事に裏切られたことにある。素朴集合論には論理を適用できないことが分かったのだ。しかし、それは、素朴集合の考え方の中に暗黙のうちに集合の全体を「帰属関係の定義された対象の集合」で表せるという前提があるからに過ぎない。{a, b, c} というような対象が3個しかない体系でも a, b, c の帰属関係では {a, b, c} の全ての部分集合を表すことはできない。論理と集合の間の齟齬は、集合の世界を「帰属関係の定義された対象の集合」で表現しようとしたことによる副次的な現象なのだ。集合を表す記号表現を {a, b, c} の内に求めなければ、論理と集合の関係は直観通り整合的なものになる。{a, b, c} の冪集合に全単射な対象の集合 {h, i, j, k, l, m, n, o} を考えると、{a, b, c} の全ての集合についての集合演算と論理が {h, i, j, k, l, m, n, o} の上で成り立つからだ。このように、論理と集合の間の関係は、集合を記号表現、集合の外延を記号内容と考える記号論的な観点から解きほぐすことができる。

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by tnomura9 | 2017-07-24 06:30 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)
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