将棋の世界ではコンピュータの利用が進んだおかげで、手筋の体系化が進んでいるそうだ。
相矢倉戦法では二十数手までは完全に解明されているらしい。そうすると、勝負の行方はそのデータを記憶しているか否かで決まってしまう。アマチュアが必死で考えて指している手はそれらの手筋の一つの例に過ぎないということである。なんだか、つまらない話だが、現実なのだ。 自分はたった一人のユニークな人生を送っており、その人生を日々探求しているつもりになっているが、実際は数ある類型の中のひとつに過ぎず、その類型を知っていればその後の人生の結末もある程度予測がつくような代物なのかも知れないのだ。 人生に成功するためのハウツー本を読むと、目からうろこが取れたような気になって気分が高揚するときがあるが、その気持ちも、たくさんの本について読んでいるうちに、類似したパターンが見えてきて、幻滅に変わることがある。人間の歴史は何万年も続いているのだから、変化といってもそう変わり映えがしないのかもしれない。何年も前にわかっていたことを、ただ、自分が知らなかっただけなのかもしれないのだ。 まあ、自分の人生というものもありふれたもののひとつなのかも知れないが、少なくとも自分自身はそれを知らない。小説だって結末は書かれてしまっていても、その過程を読むことが楽しいわけで、自分の生き方だってああだこうだと考えることで楽しめるものなのかもしれない。 しかし、自分の考え出したものが、新しくも珍しくもないと考えなければならないというのは、ちょっとがっかりする。
by tnomura9
| 2006-01-02 09:18
| 心の話
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