楯築遺跡

楯築墳丘墓は岡山県倉敷市矢部にある中期の王墓で、古墳時代の古墳の原型となったと推測されている墳丘墓だ。

不整円形の墳丘の南東と北西の両端に突き出しを持っている。同時期の弥生墳丘墓としては最大規模である。主墳の中央の木棺を取り囲むように5個の巨石が立てられ斜面にも大きな石の列石が見られる。主丘の表面は全面に葺石が施され、特に木棺の上には小石が山積みされその中央に旋帯文石が安置されていた。この石は後にこの部分に立っていた神社の御神体として祀られていた。棺の特徴は木槨をもつ中国式の木棺で、そこに30kgもの朱が敷かれていた。副葬品は簡素で鹿の角の柄をもつ鉄刀子、管玉等の大量の玉だった。人骨はなく歯が2個残されていた。

墳丘の辺縁部には土器の特殊器台・特殊壺を並べて縁取りをされている。時代と形式からみて高台の埴輪の特殊器台の原型となったと考えられる。


弥生中期、後期に列島最大の政治経済の中心が吉備にあったのは確かだろう。また、地理的にも出雲地方との交流も考えられる。宮崎平野との関係を示唆する発掘状況もある。宮崎県で発見された土器の形式の変遷から、宮崎平野から伊予を経由し吉備に至る海上の交易路があったと考えられる。


宮崎の古墳から出土する埴輪には形象埴輪はあまりなく、殆どが円筒形埴輪であるのも吉備地方と宮崎平野のつながりを示しているのだろうか。また、形象埴輪が後代に畿内で発明されたとすると、畿内より先に吉備の影響を受けていたと考えることもできる。

また、楯築墳丘墓に葬られた主が女性ではなかったのかいうことも気になる。平原遺跡のように武具の副葬が少なく、死後も墳丘が宗教的な儀式に使われたと考えられるからだ。

何れにせよ、邪馬台国がどこにあったのかという議論も、遺跡の発掘などの点で考えるだけでなく、国内外の交流を含めて面で考える必要があるのではないだろうか。


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by tnomura9 | 2017-05-20 08:38 | 話のネタ | Comments(0)
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