北九州の弥生時代や古墳時代の遺跡の発掘で貝の腕輪が出土するらしく装飾品として珍重されていたらしいが、材料となる南海産の貝は何と沖縄で採られていたらしい。沖縄から島伝いに薩摩半島西岸に集積され、そこから九州の西岸の沖を北九州まで運ばれていたそうだ。弥生時代に1000kmもの海上の交易路を通って頻繁に船の行き来があったのだ。これを貝の道と呼ぶらしい。
九州西岸の交易路が本流だが、一部大淀川周辺の宮崎平野を中継点とし、香川県や、岡山県の瀬戸内地方に至る東の海の道も提唱されている。ただ、大隅半島を回る経路は海流の関係で航海が難しかったらしいので、西岸の貝の道に比べると流通は多くなかったようだ。むしろ薩摩半島から都城盆地を経て一旦陸路を輸送し、宮崎から瀬戸内地方へ輸送していたらしい。 大淀川周辺の宮崎平野と瀬戸内地方との交流の隆盛は、発掘される土器の種類から分かるらしい。時代が下るに連れ、発掘される土器に瀬戸内地方の土器の影響が強くなり、分布図からは瀬戸内地方から都城盆地への強い関心が推察できる。おそらくは志布志湾の貝の道の集積地を目指していたのではないかということだ。 弥生時代から宮崎平野と瀬戸内地方や沖縄との交易があり、その中心となったのが装飾品用の南海産の貝であったというのが面白い。宮崎平野を交易の中継地点としても見ることができる。 宮崎平野は姶良カルデラの大爆発による火山灰が蓄積したローム層が地下にあり、必ずしも稲作に適していたわけではないようだ。また、文明の中心である北九州にも遠く政治的にも軍事的にもそう影響力を発揮できるような地政学的な利点はない。畿内の政治勢力を征服するような力があるとも思えない。大和朝廷の時代に政治的、軍事的に活躍したという記録もない。 それにもかかわらず、日向から神武東征が行われてそれが成功したのは事実のような気がする。また、もし、邪馬台国が宮崎平野にあり邪馬台国連合の盟主でありえたことが本当だとして、多数の巨大な古墳を造営できるような富を擁する国力の秘密は一体どこにあったのだろうか。 また、大和朝廷は数多くの天皇の后を遠く離れた日向の地から迎えており、大和朝廷における日向の重要性は疑いないだろう。しかし、その理由が分からない。 宮崎平野が邪馬台国であったかどうかも含め、宮崎の数多の古墳群の謎は未だ解けておらず興味が尽きない。 本題とは別だが、在野の研究者たちの大胆な構想と比較して、考古学者たちがどのような仕事をしているかと言うのが興味があるが、次のブログの一連の記事では考古学者の視点からの考え方がわかり面白い。
by tnomura9
| 2017-05-07 14:03
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