九州王朝説

九州王朝説とは古田武彦によって提唱された、7世紀末までに九州に日本を代表する王朝があり、太宰府がその首都であったという説だ。

この王朝の版図は朝鮮半島の南部と北九州だったが、663年の白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗戦してから力を失い、畿内の大和朝廷にとって変わられた。大和朝廷はこの王朝の記録を残さないため、日本書紀と古事記にこの王朝の事績を自分の王朝のものとして取り入れたという説だ。

後漢書の東夷伝に「建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす」という記事があり奴国を倭国の南端と記述しているが、朝鮮半島の南部にも倭国の版図があったからだろう。つまり、倭国を朝鮮半島南部と北九州からなる国だと認識していたことになる。

これは、1世紀に既に朝鮮半島と北九州を頻繁に行き来する高度な航海能力を倭国が持っていたことを示している。おそらく魏志倭人伝の奴国ではなかったのだろうか。

考古学界では認められていないようだが、最近これを支持する考古学的な発見もあるらしい。


この王朝の墳墓が前方後円墳だった。王朝が滅びると同時に朝鮮半島の前方後円墳も北九州のそれも作られなくなった。宮崎の西都原古墳の地下式横穴墓は海の民の文化を示唆するが、前方後円墳は北九州王朝のそれに起因するのだろう。邇邇藝命がこの九州王朝をルーツに持っていたと考えることもできるかもしれない。

九州王朝の大陸文化との密接な交流を見ると、文化レベルの高さを想像できる。宮崎にあってもその恩恵によくさなかったことはないだろうと思う。

魏志倭人伝によって邪馬台国を眺めたときに、文字のない原始的な社会をイメージしてしまうが果たしてそうなのだろうか。

朝鮮半島を通じた大陸の文化との頻繁な交流をしながら原始的な社会のままだったとは考えられない。卑弥呼の鬼道にしても原始的なシャーマニズムというより道教の素養のもとでの呪術だったのではないだろうか。鏡に呪術的な力があると考えるのは道教の考え方らしい。航海技術にしても原始的な社会と考えて連想するより遥かに洗練されていたのだろう。鉄の精錬技術をもち、鉄の武器を作り、絹布を織り、外洋を航海する帆船を持つような社会が未開な社会だろうか。

邪馬台国の位置を論じる場合に大陸に比べ文明が遥かに遅れていたという思い込みが妥当な推論を邪魔するのではないだろうか。

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by tnomura9 | 2017-05-05 23:44 | 話のネタ | Comments(0)
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