花弁状住居

宮崎では出土するが、他の土地では見つかっていない遺跡に『花弁状住居』がある。竪穴式住居の周囲に複数の小部屋を持ったものだ。


同時期に脚部がエンタシス上に膨らんだ特徴的な『B種高坏』も発見されている。ところが、これが魏志倭人伝の次の記述ともよく当てはまっているのだ。

「家屋があり、寝床は父母兄弟は別である。身体に朱丹を塗っており、あたかも中国で用いる白粉のようである。飲食は高坏(たかつき)を用いて、手づかみで食べる。」

上のリンクの分布図をみると、花弁状住居は圧倒的に宮崎平野に分布している。邪馬台国が宮崎平野にあったという重要な傍証のような気がする。

これをみると宮崎平野の特殊性があるような気がする。北九州や畿内の文化は朝鮮半島との交流を強く感じさせるが、宮崎平野のそれは黒潮に乗って来たのではないかということだ。高度な航海術をもち、青銅器文化の影響をあまり受けていないのもそれを反映しているのではないだろうか。ただ、黒潮に乗ってきたのが大陸のどの文化だったのだろうかというのが分からないが。

邪馬台国に入れ墨の習慣があったこともそれと関係があるのかもしれない。魏志倭人伝では入れ墨の習慣について特記しているが、これは当時の中国や、朝鮮半島ではそのような習慣がなかったことを示しているのだろう。

西都原古墳には、地面に竪穴を掘り、さらにそこから横穴を掘って地中に玄室を作り被葬者を葬る『地下式横穴墓』が多く出土している。これは、日向、大隅、薩摩にまたがっているが、北限は西都原古墳群である。これも同地域の文化が北九州のそれと際立っている点だろう。

ただし、西都原古墳群の古墳から発掘された人骨については下顎のしっかりした人骨と、渡来人系の顎の細い人骨の両方が発見されているので、海の民と北方の民との交流が起こっていた可能性がある。

邪馬台国が北部大陸との交流を重視していたのは魏志倭人伝でも明らかだが、その文化には海の道の影響が色濃かったというのもまた事実だろう。


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by tnomura9 | 2017-05-05 12:18 | 話のネタ | Comments(0)
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