銅鐸と邪馬台国

まず次のサイトの銅剣と銅鐸の分布図を見て欲しい。


銅剣や銅鐸は北九州から近畿にかけて、瀬戸内海沿いに広く分布しているのが分かる。しかし、宮崎県からの出土はほとんど無い。このことが宮崎平野が多くの前方後円墳が存在するにもかかわらず邪馬台国の比定地から全く外されている理由の一つだろう。

しかし、銅鐸は3世紀に忽然と姿を消し、発見されるときも地中に埋められた状態で見つかっている。古墳の副葬品としては発見されていないのだ。つまり、銅鐸は故意にその使用を禁じられたのだと考えられる。銅鐸は宗教的な儀式に用いられたと考えられているので、何らかの外圧がなければ廃棄されるはずのものではない。何かの宗教上の異変がおこったのだ。

銅鐸の用法は長らく謎だった。というのも、古事記や日本書紀には全くその姿を表さないからだ。また、魏志倭人伝の邪馬台国の風俗に関する記述にも銅鐸については述べられていない。つまり、邪馬台国には銅鐸を神事に使うという宗教がなかったのだ。そうであれば、神武東征が邪馬台国から発したのだとすると突然の銅鐸の廃棄についても説明がつく。神武天皇が大和地方を支配したあと、古来の宗教の銅鐸は廃棄させたのだ。

したがって、先に述べた分布図で銅剣や銅鐸が発掘されていない宮崎は、それゆえに邪馬台国の重要な候補地になるといえるのではないだろうか。

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by tnomura9 | 2017-05-05 01:43 | 話のネタ | Comments(0)
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