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水行10日陸行1月

魏志倭人伝では邪馬台国までの距離は南に水行10日陸行1月と書いてある。しかし、起点がどこかということは文脈で読み解かないとわからない。

陸行1月というと1日に10kmという超スローペースで移動しても 300km になる。これに水行10日を加えると軽く九州から出てしまう。

水行10日がどのくらいの距離であるかは魏志倭人伝を読んでもわからないが、船型埴輪の復元船で大阪から釜山まで渡った実験では34日で到着している(伴走船による2ノットの曳航を含める)。平均速度が3ノットとすると 5.4km/h、1日7時間航海すると37.8km/ 日、10日間で約 380km となる。

したがって、水行10日と陸行1月の到達距離はほぼ同じと考えられないだろうか。つまり、水行10日陸行1月とは、船なら10日、歩けば1月という意味ではないだろうか。

そうであれば、この水行10日と陸行1月の起点を伊都国と考えるとぴったり宮崎平野になる。南にという方位も問題ない。邪馬台国が宮崎にあったのなら、わざわざ船から陸行に乗り継がなくても船でそのまま行けると考えたほうが自然だ。

大陸との交流の中心は糸島市出土の遺物や、魏志倭人伝に「帯方郡の使者の往来では常に駐在するところ」との記載があることから考えても伊都国だったと思われるので、伊都国以降の国の方位と距離は伊都国を起点にしていると考えてもいい。わざわざ邪馬台国まで足を伸ばしたとは考えにくく、邪馬台国までの距離は聞き書きだった可能性が高い。水行10日または陸行1ヶ月といってもかなりアバウトな計算なのだ。

魏志倭人伝にはわざわざ伊都国が邪馬台国の支配下にあったとの記載があるが、邪馬台国が伊都国の支配権まで手中にするためには迅速な軍の移動が欠かせない。1ヶ月もかかって進軍しないといけないとすると九州の南の端の宮崎から北九州の伊都国を傘下に収めることなどできない。神武東征が実際にあったとすると宮崎から近畿へ大量の軍隊を運ぶ水運の技術があったことになる。邪馬台国は強力な水軍を持っていたと考えると辻褄が合うのではないだろうか。西都原遺跡から出土した埴輪の船は大型で多数の漕手を持ち外洋も航行できる準構造船だ。

邪馬台国への起点を伊都国と考えれば、謎は一気に解ける気がする。

追記

西都原遺跡の古墳から出土した舟形埴輪は平成17年に復元され、重さ数トンの石棺をいかだに乗せてこの船で熊本から大阪まで34日で曳航するという実験航海を行いデータを収集した。石棺曳航時の漕行で2ノット、海流に乗った場合5ノットの速度が出たようだ。帆走も試みられている。引き船単独の走行なら平均速度3ノットは実現可能だろう。

miten 宮崎の埴輪(2)舟形埴輪

復元された船の写真は次のページで見ることができる。

古代船の復元|大王のひつぎ実験航海事業

追記その2

潮の流れは潮汐によって方向が反対方向に変わってしまうので、これを利用すれば手漕ぎの船でも行きも帰りも速度を稼ぐことができたのではないだろうか。海上保安庁のウェブサイトでは潮流のシミュレーションができる。


古代でも水行10日というのは結構な距離だったのではないだろうか。

追記その3

古墳時代以前にも日本には帆船があったらしい。魏志倭人伝で「(伊都国から)南へ水行20日で投馬国に至る。」という記述があるが、漕行20日だと外洋の真ん中になってしまうが、帆船なら沖縄に到達できる。


水行10日がどれくらいの距離であるのかは重要なポイントだと思うが、邪馬台国の議論ではあまり検討されていないように思える。


by tnomura9 | 2017-04-29 21:45 | 話のネタ | Comments(0)
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