がり勉の勧め

がり勉の漫画的なイメージは、牛乳瓶の底のような眼鏡をかけて、服装も野暮ったくて、いつも辞書や教科書を持ち歩き、あまり人との交流もなく一人でぶつぶつつぶやいているという甚だ『いけてない』姿になる。

学生の頃は、スポーツも遊びもしっかりやって試験の点数も良いかっこいい学生を尊敬して、あまり勉強もしなかった。しかし、最近、手遅れだが、がり勉の意義について考えるようになった。

頭の良い学生は学ぶ速度が速く、試験の点数は良いが、ともすれば知識を深く探索するというようなまどろっこしいことはしないように見える。英語の文章なども速読してさっと内容を把握してしまう。何をやらせても要領を得て仕事が早いのだ。

学校の試験対策ならそれでいいだろう。しかし、そうやって得た知識は単に雑談の時にそれは知っているよと言えるような、表面的な知識でしかない。どんなに簡単な技術用語でもそこに内在する深い知識のネットワークはそう簡単に探索しつくせるものではない。知識が役に立つためには、その背景の数十倍の量の知識が要求されるからだ。

たとえば英語の文章を読むような時でも、黙読でざっと内容を掴むだけでは応用力がつかない。音読し、知らない単語はしらみつぶしに調べ、その単語の用例も10数個くらいは読んでみて、最後は元の文章を暗記するくらいの意気込みがいる。泥臭いがり勉でなければそのような労苦には耐えられないだろう。

本気で知識に対峙しようとするなら、がり勉になるしかない。


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by tnomura9 | 2017-01-21 13:20 | 考えるということ | Comments(0)
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