ラッセルのパラドックスなんて怖くない

集合について初めて学習し始めたとき、そのわかりやすさがうれしかった。

集合を「ものの集まりというもの」としてとらえることで、いろいろなことが分かりやすくなる。和集合や共通部分の意味もよくわかったし、「xは犬である」という術語を満たす x を集めるとそれは集合になるという内包的定義も納得できた。

しかし、参考書を読み進めていくといきなりラッセルのパラドックスが現れて奈落の底に落されたような気持になった。「自分自身を要素として含まない集合の集合」を考えるとパラドックスになってしまうというのだ。素朴集合論はそのため数学の基礎としては全く使えないことになるというのだ。

便利なものをいろいろ見せられたうえで最後にそれは全部不良品でしたと言われたようで、腹立ちを覚えたことを覚えている。

こう言ってもらえたらよかったのだ。「素朴集合論は有限集合を扱っているうちは矛盾はありません。しかし、無限集合を扱うときと、内包的定義を使って集合を定義するなどの集合の概念の拡張を行うときは注意が必要です。」

これらは有限集合の拡張だ。全く問題のなかった有限集合の集合論を無限集合に拡張したり、内包的定義を導入したときにいろいろと不都合なことが起こる可能性がでてくる。無限集合についてはこの記事では触れない。

また、ラッセルのパラドックスは内包公理の問題であって、無限集合との関係はない。それは、床屋のパラドックスや、図書館目録のパラドックスが有限集合について述べているのにも関わらずパラドックスになってしまうことでもわかる。

ラッセルのパラドックスが発生する原因は、集合がものとしての集合それ自体と集合がさし示す「ものの集まり」としての二つの性質が不可分に結びついているという記号論的な構造にある。

ソシュールの記号論では、記号には記号そのものである記号表現とその記号がさし示す記号の概念である記号内容が不可分に結びついているとする。たとえは交通標識のUターン禁止は標識の図柄としてのUターン禁止の画像とそれがさし示すUターンが禁止されているという記号の意味が不可分に結びついている。

「集合とは物の集まりという物である」という集合の定義も、この記号論的な観点から分析することができる。つまり、集合には物としての記号表現とその集合が指し示す物の集まりとしての記号内容が不可分に結びついているのだ。

犬の集合には犬の集合という物としての記号表現と、その集合がさし示す犬の集まりが不可分に結びついている。この場合犬の集合という物も物の一つだから犬の集合の要素として含まれるかどうかを考えないといけない。犬の集合の場合犬の集合自体は犬ではないので自分自身の要素としては含まれない。

ところで、犬の集合や、猫の集合のような自分自身を要素として含まない集合を集めて集合を作ってみよう。たとえば犬の集合と猫の集合の集合である。この犬の集合と猫の集合の集合は自分自身がその要素として含まれるだろうか。犬の集合と猫の集合を集めたものが犬の集合と猫の集合の集合なので、それ自身は自分の要素としては含まれない。

ここで、犬の集合と、猫の集合を考えてみよう。これらはどちらも「自分自身を要素として含まない集合だ」また、犬の集合と猫の集合の集合もやはり、「自分自身を要素としては含まない集合の集合」だ。すなわち、「自分自身を要素として含まない集合」を集めた集合は、それがどのような集合であっても自分自身を要素としては含まないにも関わらず、「自分自身を要素として含まない集合」になってしまう。

したがって、「自分自身を要素として含まない集合」をどのように集めて集合を作ったとしても、その集合の記号内容としての集合は、自分自身を要素として含まないにも関わらず、その集合の記号表現としての集合は「自分自身を要素として含まない」という術語を充足してしまう。言い換えると、「自分自身を要素として含まない集合」を全てあつめた集合をこの述語では定義できないということだ。

端的に言うと、述語として全てのものがそれを充足するかしないかを判定できたとしても、その述語による内包的定義で定義できない集合があるということだ。それは集合に集合そのものとしての記号表現と、その集合が表す記号内容としての物のあつまりが不可分に結びついているという記号論的な性質から説明できる。

説明がわかりにくくなってしまったが、要するに集合は集合という記号表現とその集合で表される物の集まりという記号内容から構成されていると考えることがポイントだ。

この観点でラッセルの集合を見ると、自分自身を要素としては含んでいないがそれゆえに「自分自身を要素として含まない集合」であるというその構造が見えてくる。したがって、ラッセルのパラドックスを得体の知れない奇妙な集合と神秘的に捉える必要はなく、記号表現は、記号内容である物の集まりの一員ではないが、それゆえに記号表現がそれらと同じ述語を充足するという物の集まりの構造が見えてくる。

集合は物の集まりという物であるという集合の定義や「自分自身を要素として含まない集合の集合」というラッセルの集合の定義は単純である。したがってそこから発生するパラドックスのメカニズムも上に述べたように至極単純なものなのだ。

ラッセルの集合の構造が上に述べたような分かりやすい単純な構造であるのが分かれば、ラッセルのパラドックスを説明が不可能な神秘的な現象であると考える必要がなくなる。安心して集合を扱っていいのだ。



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by tnomura9 | 2016-12-18 23:49 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)
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