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記号論的集合論

素朴集合論におけるラッセルのパラドックスという分かりにくい概念が、集合を記号論的に取り扱うことによって分かりやすくなるような気がしたので書いてみる。

記号論とはソシュールによって始められた言語学の概念だ。その根本の考え方は、記号を記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)が不可分に結びついたものと考える考え方だ。

例えば「雪」という言葉は「雪」という記号とそれが指し示す空から降ってくる白い結晶から構成されている。雪という言葉(記号)は記号そのもの(記号表現)とその記号が指し示す雪というものあるいは概念(記号内容)とが不可分に結びついたものだと考えられる。

ところで、素朴集合論における集合の定義は、「集合とはものの集まりというものである。」というものである。そこで、これを記号論的に捉えてみると、集合 A については、記号表現としての A と、集合 A が指し示しているものの集まりである {a1, a2, ..., ak} という記号内容から構成されていると考えることができる。

このように集合を記号論的な記号として考えることによって、物としての集合(記号表現)とそれが指し示すものの集まりとしての集合(記号内容)を分けて考えることができる。

さて、ここで議論を簡単にするために、集合(記号表現)だけからなる集まり {a0, a1, a2, ... , an} について考えてみよう。そうして、各集合はそれらの集合のいずれかを集めたもの {ai, aj, ..., ak} を指し示している(記号内容)とする。

そこで、この集合(記号表現)がどの要素を含んでいるかを記述するために、a0, a1, ..., an を横と縦に並べた n x n の表を作る。そうして縦に並べた a0, a1, a2, についてそれぞれが横に並べた集合を要素として含む場合は1を、要素として含まない場合は0を表の縦と横の交点に記入していくことにする。そうすると ai 行に並んだ a0, ..., an 列の1と0の列は集合 ai がどの要素を含んでいるかを表している。つまり、集合 ai (記号表現)がどのような要素の集まりからなっているかは ai 行の1と0の列が表している(記号内容)。

** a0, a1, a2, ..., an
a0 0, 1, 0, ... , 1
a1 1, 1, 0, ... , 0
a3 0, 0, 1, ... , 1
....

an 0, 0, 1, ... , 1

このようにして、集合 ai(記号表現)と集合 ai で表される要素の集まり(記号内容)の対応関係が、ai 行の1と0の列として記述することができる。つまり、集合 ai が 集合 ak を要素として含むかどうかは ai 行の ak 列の数が 1 であるかどうかでわかる。

そこで、この表の対角線の部分を調べてみる。するとそこに記述されている1や0は集合が自分自身を要素として含むかどうかを表していると言える。例えば ai 行 ai 列の値が 1 であれば集合 ai は自分自身を要素として含むし、ak 行 ak 列の値が0であれば、集合 ak は自分自身を要素としては含まない。

したがって、この対角線の値が0の集合 ak, ..., am を集めると、自分自身を要素として含まない集合の集合ができることがわかる。これを借りに ar (記号表現)と呼ぶことにしよう。この ar(記号表現)の表す集合 {ak, ..., am} に対応する ar 行の1と0の列はどうなるだろうか。明らかにそれは、ちょうど対角線の値が0であれば1に1であれば0にしたものであることがわかる。

さて、この ar 行の数列に一致するものが a0, ..., an 行の中にあるだろうか。明らかにそれは不可能である。なぜなら ar 行の数列は対角線の値を反転したものだから、どの ai ともその対角線の部分で異なるからだ。

したがって、集合 a0, ..., an の中には自分自身を要素として含まない集合の集まりは存在するにもかかわらず、それを記号内容とする記号表現は a0, ..., an の中には存在しないことがわかる。このため、自分自身を要素としない集合の集まりはあるにもかかわらず、それを記号内容とする集合 ar は a0, ..., an の中に見つけることはできない。言い換えると、それらの集まりを記号内容とする集合 ar という記号表現は存在できない。このような集まりを指示しようと思うならそれは集合ではなくクラスと呼ぶべきものである。ラッセルのパラドックスではこのように存在しない集合を集合と考えたためにパラドックスになってしまうのだ。

このように集合を記号論的に記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)から構成される記号であると考えることによって、ラッセルのパラドックスに見られるようなクラスの発生理由を明確にすることができる。

上の議論から、ラッセルの集合「自分を要素として含まない集合の集合」はどのような場合にも集合となることはできず、その集まりはクラスになってしまうが、クラスにはラッセルのクラス以外にはないのだろうか。その答えは次のように考えればわかる。

つまり、記号表現としての集合 a0, a1, ... an を要素とする集まりは実際は 2^n 個ある。しかし、記号表現として考えることのできる集合は n 個しかない。それ以外の集まりは集合として表現することはできず全てクラスになってしまうのだ。集合とクラスの数の差は記号表現としての集合を増やすほど大きくなっていく。たとえ記号表現としての集合を無限に大きくしていってもどの時点でもはるかに多くのクラスが存在することになる。

このように集合を記号論的に、記号表現としての集合とその記号内容としての外延というふうに捉えることによって、ラッセルのパラドックスの成因やクラスの存在を理解しやすくなる。

追記

これは集合 a の集合(全体集合)を考え、集合 a という記号表現にたいし、その集合の部分集合である {a1, a2, ... , an} (記号内容)を対応させることで、「集合とは物のあつまりというものである」という定義のモデルを作った場合の推論を示している。言い換えると、集合と集合の要素を同列において考えるとどうなるかということだ。

この全体集合の要素数が n のとき、この全体集合のべき集合の要素数は 2^n になるので、全体集合の要素ですべての可能なべき集合の要素に対応付けることはできない。とくに「自分自身を要素として含まない集合の集合」は記号表現としての全体集合の要素を、どのように記号内容としての全体集合の部分集合と対応させた場合でも、全体集合のなかに「自分自身を要素して含まない集合」という部分集合があるにも関わらず、それに対応する全体集合の要素をみつけることがでいない。

これは全体集合の要素 n がどんなに多くなっても成り立つので、全体集合が可算の場合は、ラッセルの集合を表す集合をその中に見つけることはできないことを示している。

追記その2

上の議論では全体集合の要素である集合のなかにラッセルの集合を見つけることができないという議論だった。しかし、強制的にラッセルの集合を全体集合の中に作ってみることはできないだろうか。つまり a0, a1, ..., a(n-1) までは普通に集合を定義して、an を「自分自身を要素として含まない集合の集合」にできないだろうかということだ。しかし、この試みもうまくはいかない。an と a0, a1, ... , a(n-1) の交点の値は簡単に求めることができる。対角線の成分を反転させたものを使えばいいからだ。しかし、an と an の交点には1も0も置くことができない。an と an の交点が1なら an は自分自身を要素としてしまうから an と an の交点は0でないといけないし、逆の場合もパラドックスが起こってしまう。

ラッセルのパラドックスとは全体集合の中に「自分自身を要素として含まない集合の集合」をつくろうとしてもできないことを示していたのだ。

追記その3

全体集合が可算の場合は、ラッセルの集合は全体集合のなかに作れないことが分かった。しかし、全体集合が非加算だったらどうだろうか。しかし全体集合が非加算の場合、個々の要素をすべて列挙することができないため、上の議論のような演算表が作れない。全体集合が非加算の場合にラッセルのパラドックスが発生するかどうかは興味のあるところだ。

by tnomura9 | 2016-05-05 04:48 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)
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