集合は大きく「自分自身を要素として含む集合」と「自分自身を要素として含まない集合」に分けられるように思われる。実際、「猫の集合」は自分自身を要素としてふくんでいないし、「猫でないものの集合」は自分自身を要素として含んでいるようにみえる。また、現実にも合わせ鏡のように、自分自身の影像を自分の影像の中に取り込むことができるものがあるので、自分自身を要素として含む集合があっても問題はないようにも思われる。
自分自身を要素として含む集合の端的なものは、自分自身のみを要素として含む集合である。これを S とすると、 S = {S} = {{ ... }} のようになる。そこで S のみを要素とする集合 S' = {S} を作ってみる。S' は S を要素とする集合なので S とは違うもののように見える。しかし、どうしたら S' /= S を証明できるのだろうか。 ところで、集合 A と 集合 B が等しいかどうかは、外延性の公理によって判断する。外延性の公理の意味は、集合 A のどの要素をとってもそれが集合 B の要素として含まれており、逆に集合 B のどの要素も集合 A に含まれていれば、集合 A と集合 B は等しいと考えるということだ。簡単に言うと集合 A と集合 B の要素が全て一致していれば A = B と言っていい。 A = {1,2}、B = {2,3} のときは A /= B だ。A と B の要素が完全には一致していないからだ。たとえば、Aの要素 1 は B には含まれていない。それでは次のように A と B を要素として含む集合 P, Q についてはどう考えればいいのだろうか。 P = {A}, Q = {B} この場合外延性の公理から P の要素 A と Q の要素 B が一致していれば P = Q だ。しかし、P の要素も Q の要素も集合である。集合 A, B が等しいかどうかはそれらにさらに外延性の公理を適用しなければならない。つまり、集合 A と集合 B の要素について検討しなければならない。これは、上の議論から A /= B である。したがって P と Q には要素の一致がなく P /= Q であることがわかる。 このように、集合の要素が集合である場合には、次々に外延性の公理を適用して集合以外の要素に至るまで遡らなければならない。 この観点から上の S' と S の問題に戻ってみよう。単純に考えると S' = {S}, S = {S} だから両者の要素は一致するので S' = S であると結論付けることができる。しかし、両者の要素の S = S は集合と集合の比較なので、外延性の公理を適用すると、これは S の要素にさかのぼって考えなければならないはずだ。しかしながら、Sは S = {{{ ... }}} のように無限に皮をむける玉ねぎの皮のようになっているので何時までたっても集合以外の要素が現れることがない。したがって、外延性の公理を厳密に適用する限り、S' = S とも S' /= S とも言うことができない。 自分自身を要素とする集合は、このように、外延性の公理によって、集合の相当関係が判別できないので、このような病理的な集合は集合の世界から除外したほうがいいかもしれない。実際、数学に現れる集合は全て「自分自身を要素としては含まない」集合のように見える。 集合を「自分自身を要素として含まないもの」に限ると矛盾は生じないように見える。しかし、そのような集合全てを集めた集合はラッセルのパラドックスを引き起こしてしまう。どんな集合を集めた集合であっても、それは集合であるかぎり自分自身を要素として含まないはずであるが、全てのそのような集合を集めた集合は、全ての集合を要素として含むためには、自分自身を要素として含まなければならなくなるからだ。 この困難はラッセルの集合を自然数の無限大とのアナロジーで理解すると解決することができる。自然数には最大数というものはない、最大数 N を仮定しても、自然数の定義から N+1 は最大数より大きな自然数であるからだ。また、自然数の無限大は偶数とも奇数とも言えない。自然数の世界から発生した自然数の無限大はしかしながら自然数ではないからだ。 同じように、(自分自身を要素とはしない)集合を集めたものは集合になるが、どんなに大きな集合の集まりを集めて集合を作ったとしても、その集合はそれらの集まりには含まれない(自分自身を要素とはしない)集合である自分自身を発生させてしまう。ラッセルの「自分自身を要素としない集合全ての集合」はこのように、整数の無限大のようなもので集合とは言えないのだ。 素朴集合論の世界を、「自分自身を要素としては含まない集合」の集まりと考え、ラッセルの「自分自身を要素としては含まない集合の集合」は自然数の無限大と同じように、そのような集合はないと考えると、集合の世界にについて見通しのよいイメージを作ることができる。 自然数の世界では無限大は自然数ではないので偶数とも奇数とも定めることができない。しかし、無限大が自然数ではなくても自然数の理論は支障なく構築できる。集合の世界でもラッセルの集合は集合ではないが、集合の世界のなかに全ての数学的理論を構築できている。 確かに、自分自身を要素としては含まない集合の上で、多くの数学理論が構築できているように見える。それでも、「自分自身を要素として含む」集合も含めた集合の世界がどのようなものになるかは興味のあるところだ。だが、この場合は、外延性の公理について変更が必要になってくるのではないだろうか。 また、ものの集まりを「集合」という「もの」であるとする集合の定義は再帰的定義だ。その定義は無限に新しい集合を作り続ける。また集合の相当性をその要素の一致に求める外延性の公理は再帰的定義を還元する方法だ。無限に成長する集合の運動の一点を捉えて、それを、集合発生の初期の条件に結びつける。集合の世界はこの再帰と還元で構造物が造られているのではないだろうか。このとき、ラッセルの集合はパラドックスではなく、このような再帰的構造物における無限大と考えるべきなのだろう。
by tnomura9
| 2015-06-28 07:34
| 考えるということ
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