前回までの記事で、素朴集合論の世界は対象と所属関係という射からなるメタグラフで完全にモデル化できることがわかった。このモデルでは自分自身を要素として含む集合も表現できるし、「自分自身を集合として含まない集合の集合」も自然に排除できた。それでは、このモデルに排中律が適用できるのだろうか。
つまり、素朴集合論のメタグラフの対象を、ある集合と、その集合ではない対象の集合に二分することができるかということだ。 これに対する完全な解答は思いつかないが、自分自身を要素とする集合を集合とは認めないような、集合論のメタグラフについては面白い結論が得られる。 例えば、メタグラフの対象Aを一つとると、これは集合である。そうして残りの対象の全てはこの集合ではない対象である。したがって、排中律から集合のメタグラフの対象の全体はこの集合 A と A ではない対象の集合に分けられるはずだ。そこで集合 A 以外の対象を集めた集合を B とする。B には A 以外の全ての対象からの射が向けられているはずだ。ところで B には A 以外の全ての対象からの射が向けられているので、当然 B からの射もなければならない。しかし、この場合 B は自分自身を要素とする集合となってしまい、自分自身を要素としないとする集合の定義に反する。したがって、A 以外の全ての対象をあつめた集合 B は定義できない。 集合のメタグラフに排中律を適用しようとしても、集合Aと「集合Aではないものの集合」に分けることはできない。集合 A 以外の対象を一つの集合にまとめることはできないのだ。メタグラフを集合 A と「集合 A 以外の対象の集合」に分けようとしても分ける事ができない。 素朴集合論のメタグラフは、本当に排中律と相性が悪い。それは、物の集まりを集合という一つの対象とみなすという、集合の根幹的な考え方から発生しているようだ。要素の集まりを集合という対象とみなすことによって、無限に新しい集合が発生してしまうためだ。
by tnomura9
| 2014-11-07 23:33
| 考えるということ
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