可換 commutative

集合は、要素と集合と写像という3つの要素だけですべての数学的対象の構造を記述できる。それは公理的集合論から全数学の体系を組み立てるというような、数学基礎論のような意味ではなく、数学の対象について整理して記述するために集合の考え方が便利であるという意味合いだ。

集合と要素と写像の性質を理解するのにそう難しい数学的な背景知識はいらない。むしろ、最初に集合的な考え方を身につけていると、いろいろな数学を学ぶときに議論がわかりやすくなる。

圏論というのも、このような集合の特質と同じような特徴があるのではないかという気がしてきた。圏論の場合も集合のそれと同じように道具立てはシンプルだ。圏、対象、射、射の合成、可換、関手、自然変換くらいしかない。様々な数学的構造の複雑な議論は、圏の対象と射のなかに閉じ込められてしまう。圏論の議論では、そのような個別の議論は対象と射のなかに閉じ込められて考慮する必要がなくなるからだ。

圏論を理解するための最も重要な考え方は、external な立場ということだ。集合では集合と集合の写像を考える際にも、始域の集合の要素がとのように終域の集合の要素に関連付けられているかを考えたり、端的に集合の中の要素間の関係を考えたりする。圏論の external の立場ではこのような集合の要素を直接に扱うことは全くない。集合の要素や、単射、全射のようなものも、すべて射の関係性で表現される。

また、隠蔽されるのは対象の中身だけでなく、射の中身ものぞくことはできない。圏論の議論では、射 f と g の関係については考察されるが、射そのものの実体はなんであるのかについては触れられない。射がたんなる矢印なのか、写像なのか、凖同型写像なのか、連続写像なのかは、まったく圏論の議論に影響しない。

圏論の学習の敷居を高くしているのは、参考書にかかれている実例がとんでもなく高度な数学の知識ばかりだということだ。実例をまったく理解できないのに、どうしてそれを扱う抽象的な議論ができるだろうか。

しかし、上で述べた圏論の道具の本質を考えると、圏論を学習するのにそのような高度に数学的な実例はまったく必要がない。圏論の議論ではそのような高度な知識は対称と射のなかに隠蔽されてしまうからだ。むしろ、圏論を学習した後で、それぞれの高度な理論を勉強すると、それらの議論に随伴のような圏論の考え方を当てはめることで、数学的構造が把握しやすくなるのではないだろうか。

実際、圏論を理解するには、実例としては、集合の圏である Set だけで充分なのだ。圏論の議論のイメージを作る際には、対称を集合に、射を domain の要素すべてを定義域とする全域写像に置き換えると。ほとんどの議論のイメージをうまく作ることができる。

圏論の議論のすべては射と射の関係性について述べてあるのだ。

このように、圏論は射と射の関係性について述べてあるが、そのときに、最も重要なポイントは「可換」という概念だ。一口に言うと、「可換」とは射 f と g の動作がまったく一致するということだ。集合の圏についていえば、写像 f と g の定義域が一致し、定義域の要素の関数による値がまったく一致するということだ。つまり任意の x ∈ A について f (x) = g (x) ということだ。一部が等しいということではなく、すべての点で f と g は動作が一致していなければならない。

つまり、f : A -> B, g: B -> C, h : A -> C のとき h が g . f と可換である、すなわち、h = g . f であるためには、h と g . f は同じ domain A と同じ codomain C を持ち、x ∈ A であるすべての x について h (x) = (g . f) (x) でなければならないということだ。圏論で使用される様々な射と対象の関係を表した図式は「可換」であるということの意味を考えておかないと理解できない。

対象と射のモデルとしては集合と写像を使い、射の可換の意味に注意して読めば、高度な数学の知識がなくても圏論の議論を理解するのは不可能ではない。さらに、集合と同じように、圏論も数学を学ぶときに最初に習得しなくてはならない知識の一つになるのではないかとすら思える。
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by tnomura9 | 2014-07-21 13:31 | 圏論 | Comments(0)
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