藤堂高虎

NHKの「その時歴史は動いた」で藤堂高虎の特集をしていた。

一生の間に主人を10人も変え、秀吉に重用されていたにもかかわらず秀吉の生前から家康に情報を流し、寝返り工作をし、外様でありながら32万石の大大名になったため、「風見鶏」と嫌われることの多い彼が、実は時代の流れを読み、時には自軍を滅亡の危機に立たせても、藤堂家の危機を乗り切っていった名経営者だったという切り口だったようだ。

気になったので、インターネットで色々と調べてみたら、実像は謀略家とは違うような気がしてきた。大男で、気性が激しく、矜持の高い人間だったようだが、実に誠実な人間だったようだ。裏切りや、嘘とは縁のない人間だし、実際一度も裏切りをしていない。家康に情報を流したのも、ゴマをすろうとかいう意識ではなく家康の屋敷の工事を行って以来の交友からの行為だったのだ。

身長190cm、体重110kgの大男だった。最初浅井長政に仕え、15才のとき姉川の合戦で手柄をたてたが浅井家が滅びてしまった。その後いろんな武将の下を点々とする。気性が荒く、言いたいことをはっきり言い過ぎて敬遠されたのではないだろうか。

浪人のときあまりの空腹に耐えかねて、金も無いのに、餅屋のもちを全部食べてしまったことがある。その時餅屋の主人が食べっぷりに感心して、餅をただにしてくれたうえ、路銀まで恵んでくれた。藤堂はこれに感謝して、出世してからも、旗指物の文様を3個の餅にしている。また、大名行列の途中で立ち寄って金品を与えたり、家中のものは年に一回この餅屋に立ち寄るのを慣わしにしたりして報いている。

やっと羽柴秀長に300石で拾われるが、この主従関係はうまくいったらしく、最後は筆頭2万石にまで上りつめ、秀長の養子の秀保の後見人にもなった。秀保が急死すると、剃髪してさっさと高野山に篭ってしまったが、秀吉が「首に縄をつけても引っ張ってこい」といって迎え、伊予板島7万石を与えた。慶長の役では水軍を率いて活躍し1万石を加増されている。

その後、役目で徳川家康の屋敷を立てたが、その折の心遣いに感じた家康が感謝の挨拶をしたのがきっかけで、家康との親交がはじまった。豊臣方の内部事情を家康に伝え危機を救ったこともある。秀吉が死ぬと早々に徳川家康を支持し、裏切り者呼ばわりをされたが、「武士は、自分の思ったことは断行しなければならない」といって耐えた。

関が原以降も一心に家康に使え、家康が死ぬときは日蓮宗から天台宗に改宗し、死んだ後も家康に仕えるといって家康を喜ばせた。76才で死んだが、体中鉄砲や刀の傷で無傷のところは無く指も何本か欠けていた。

戦略家ではあったが裏切り者ではなかった。情に厚く、死を恐れなかった。部下や領民を可愛がり、慕われた。戦の後は、戦死者を、敵も味方も隔てなく弔った。知に働くだけの経営者などではなかったのだ。

藤堂高虎の人となりはともあれ、NHKの番組にもあるように、驚くのはその時代や人間に対する読みの正確さである。これは彼が近江の出身であることと無縁ではないような気がする。全国に行商をしていた近江商人や伊賀の忍者たちの影響があったかどうかは分からないが、この地に育ったということで、情報力の重要さを身をもって知っていたような気がする。後年、伊賀伊勢の領地を拝領するが、同時に伊賀忍者の統括も行っており、家康の情報局のような役割を果たしていたのではないだろうか。

藤堂が天下万民の平和のような理想を持っていたかどうかは定かではない。しかし、全身全霊を持って誠実に自分の人生を生き抜いた人であったような気がする。
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by tnomura9 | 2005-10-02 19:20 | 話のネタ | Comments(0)
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