フィンランドの教育法である「フィンランド・メソッド」では小学生が入学してくると、先生が生徒に「なぜ?」という質問攻めにするそうだ。
子供が小さいときに「何?」「なぜ?」攻撃を受けて苦しかったのを覚えているので、子供も大変だろうと同情するが、しかし、「なぜ?」という質問が教育の現場でどうしてそのように重要視されているのか不思議に思った。 そこで思いついたのが、アブダクションを誘発するのでないかということだ。アブダクションとは仮説的推論のことで、古くはアリストテレスの著作に端を発するらしい。また、アブダクションの例でもっとも有名なのはシャーロック・ホームズの推理だ。 現に目の前にある事柄は必ずいろいろな要件と関連がある。しかし、さしあたって目に見えないそれらの要件を探り出すきっかけになるのが「なぜ?」という質問なのだ。たとえば、杖をついて歩いている人がいるとする。それが、年寄りであっても、若い人であっても杖をつくに至った理由があるはずなのだ。 「杖をついて歩いてい人がいる」という通り一遍の観察に、「なぜその人は杖をついているのだろう?」という疑問が加わると、子細な観察がはじまる。「その杖は一本杖なのか、松葉杖なのか。どちらの足を引きずっているのだろうか。ギプスなどはしていないのだろうか。」等々さまざまな観察をひきだし、もっともふさわしそうな仮説へたどりつく。 いったん仮説ができても、それで満足してはいけない。その仮説がほんとうに適切なのか、別の仮説は考えられないのか。あるいは、仮説から推測される過去や未来の現象はどういうものなのか検証しないといけない。 目に見える現象は単純なものであっても、それに関連する背後の要件は広く複雑なものだ。それらの、関連性にまで思いが至らなければ、適切な仮説など思いつくことはできないだろう。氷山の一角を見て、本体に思いが及ばなければ本当の理解はえられない。 しかし、このアブダクションという思考はかなり脳のエネルギーを消費するらしく、普段はこのような思考活動は起きない。「なぜ?」という疑問を呼び水にすることで、ふさわしい仮説をもとめるこのような一連の思考活動を誘発することができる。 こう考えると、一見何の変哲もない「なぜ?」という疑問の重要さが分かってくる。また、試験問題をすばやく解くために、解答のパターンを覚えておくという訓練がいかに浅薄で有害なもの(大学受験にしか使えず、応用範囲が狭いという意味で)かもよくわかる。さらに、それは、受験産業の責任ではなくて、そのようなパターンを誘発する入試問題の作者の責任だということも。
by tnomura9
| 2012-04-26 07:56
| 考えるということ
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