『論理哲学論考』を読んでまずびっくりするのは、各文の先頭に打たれた謎の番号である。藤本隆志/坂井秀寿訳 法政大学出版部の版の解説にも次のように書いてある。
およそ哲学の著作のうち、『論理哲学論考』ほどふう変わりな書は、類を見ないであろう。それは一見したところ、番号を打たれた、たがいに何の脈絡も持たぬアフォリズムの集積にすぎない。 しかし、この番号は各文の階層構造をあらわしていることが最初のページの原註に説明されているのだ。 個々の命題の番号として付けられた小数は、その命題の論理的な重要性、つまりわたしが叙述にさいして強調した度合いを表している。n.1、n.2、n.3、等の命題はn番目の命題に対する註であり、n.m1、n.m2、等の命題はn.m番目の命題に対する註となる、といった具合いである。 つまり、『論考』はスレッド式掲示板の要領で書かれているのだ。ヴィトゲンシュタインは実に几帳面に自分の頭の中にある命題の構造を書き表していたのだ。したがって、『論考』は最初から順に読むべきものでなく著者が明示した命題の構造に沿って読むべきなのである。たとえば主な命題とその一階層だけ下の命題を抜き出してみると次のようになる。 1 世界は、成立している事柄の全体である。1.1 世界は事実の寄せ集めであって、物の寄せ集めではない。 これをざっと見ると、ヴィトゲンシュタインの考えのアウトラインが次のようなものではなかったのではないだろうかと思われる。つまり、 世界は命題で記号化できる。世界と命題の体系の間には論理形式についての相同性がある。命題の体系で行われる論理操作はすべて同語反復(トートロジー)である。したがって、命題の真偽は本質的に要素命題の真偽に依存する。要素命題の真偽については、命題の論理的体系は何も語ることが出来ない。したがって、論理は世界の真偽について何も語らない。 ということである。
by tnomura9
| 2005-08-13 12:05
| 考えるということ
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Comments(2)
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