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『論理哲学論考』を読む

ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』くらい誤解され続けた本はない。なにしろ、ラッセルという巨人が書いた初版への序文が既に誤解だったらしいのだ。

しかし、驚くくらいこの本は愛され続けている。こんな本誰が読むのだろうと思って、ネットで検索するとたくさん出てくる。皆「分からん、分からん」といいながら、この本の言葉を引用したがっているように見える。

なぜだろうと考えたが、結局この本の簡潔で美しい文に魅かれているのではないかと思う。有名な結語の、

語りえぬものについては、沈黙しなければならない。


なども、めちゃくちゃかっこいい。ポスト構造主義あたりの、わけわかの言葉の氾濫に悩まされた後で、この言葉に触れると、胸がすっとするような気がする。また、語りえぬものとはなんだろうか。存在とか生とか哲学の得意の問題がなぜ語りえぬものなのだろうか。沈黙しなければならないと著者は言っているが、沈黙しながら実際はこれらの形而上の問題に惹き付けられているような気がする。等々色々と連想できて楽しいのだ。

それで、どうせ皆誤解しているのだから、管理人が誤解の上塗りをしてもちっとも構わないのではないかと思うようになった。それで、管理人もこの本に挑戦したいと思う。

その際二つの方法を使うことにした。一つは思い切って単純化すること、具体的には文を解釈するとき、二つの単語を取り出し、その関連性のみを考えるということだ。上の例で言えば、「語りえぬもの」と「沈黙」という言葉を取り出し、その二つの言葉をウィトゲンシュタインがどう結び付けようとしたかを考えるようにした。他のことはとりあえず無視する。

もう一つは、起こりえる可能性を全て考えるようにするということだ。幾何学の証明に出てくる「場合分け」のようなものだ。たとえば、「語りえぬもの」について考えるとき、「語りえるもの」についても考える。世界には「語りえぬもの」と「語りえるもの」の二つしかないから、この両方について考えればそう問題はないだろう。ただし、「自分自身を要素として含まない集合」のようにへそまがりなものもあるので注意しなければならないが。

基礎知識もそうないし、頭も単純なのでそう難しく考えることはできない。それで、上に述べた二つの方法で大胆に誤解の上塗りをしようという魂胆なのだ。なんで、そんなことをするかというと、ネタ切れだし、楽しそうだからだ。
by tnomura9 | 2005-08-10 03:10 | 考えるということ | Comments(0)
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