論理とは起こりえる可能性を全て検討することだ。
論理的な文章では、全ての可能性を何らかの形式で検討してあるからこそ、確実性を主張することができるのだ。それがなされていない場合、その主張は蓋然的でしかない。 将棋は最初に先手が動かせるコマの数は9個だ、そのおのおのの場合について後手がとりえる手の数がある。したがって、将棋の勝敗が決するまでの全ての可能性を検討するのは不可能だが、将棋の手が論理的であると主張するためにはそれらの全ての可能性がなんらかの形で検討されていなくてはならない。 したがって、将棋は論理的ではないのだ。定跡は部分的には論理的だが、しかし、経験的な手法でしかないのだ。 また、論理的な手法は発見的というより、説明を明確にするための手段だ。論理学的な手法から発見が行われることは少ないだろう。
by tnomura9
| 2005-08-07 00:34
| 考えるということ
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