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関数の対角線論法

対角線論法の本質は、関数の対角線論法によって一般化されることが分かった。したがって、対角線論法の本質は、∈記号の性質というよりも、集合の直積 X × X から、二値関数 {0, 1} への写像の性質と考えることができる。それでは、パラドックスは φ: X × X -> {0, 1} のどのような性質から発生するのだろうか。

ここで、もう一度、関数の対角線論法を再掲する。

x を集合とし、φ : X × X -> {0, 1} を写像とする。φ(x, y) を φx(y) と書くことにすると、各 x ∈X に対し φx は x ∈ X から {0, 1} への写像である。ここで g : X -> {0, 1} を g(x) = ¬φx(x) で定義すると、このとき、φx0 = g となる x0 ∈ X は存在しない。

ここで、集合Xとして、{1, 2, 3, 4, 5} をとってみる。すると、φ(x, y) の値を次のような表に割り振っていくことができる。

  1 2 3 4 5
1 0 1 1 0 0
2 0 1 0 0 0
3 1 1 0 0 0
4 0 0 0 0 1
5

このとき、表の0と1の表れ方は任意に取ることができる。上の表では、φ(1,3) = 1, φ(3,3) = 0 だ。5行目は理由があってまだ完成させていない。

それでは、上の表で、関数の対角線論法に見られる g(x) をどう表現すればいいのだろうか。そこで、この表で x0 = 5 とおいて、g(x) を作ってみる。g(x) = φx0(x) = φ(5, x) であるから、五行目の表を完成すればそれがg(x) を表すことが分かる。

定義から、g(x) = ¬φ(x, x) なので、g(1) = ¬φ(1, 1) = ¬(0) = 1 だ。同様に g(2) = 0, g(3) = 1, g(4) = 1 と値を決めていくことができる。この値を五行目に書き込んだのが次の表だ。

  1 2 3 4 5
1 0 1 1 0 0
2 0 1 0 0 0
3 1 1 0 0 0
4 0 0 0 0 1
5 1 0 1 1 *

g(5) のところが * になっているのが目立つが、実際、g(5) には1も0も置くことができないのだ。仮にg(5) = g(5, 5) = 1 と仮定すると、gの定義から、g(5) = ¬φ(5, 5) = ¬(1) = 0 となるので、g(5) = 0 でなければならなくなる。また、g(5) = 0 と仮定しても矛盾が起きるので、g(5) は1とも0とも決めることのできないパラドックスになってしまう。

これは g(x) を定義する二つの方法 g(x) = φ(5, x) と、g(x) = ¬φ(x, x) が x = 5 のところでコンフリクトを起こしてしまうためだ。このコンフリクトは x が 5 の時だけに起こり、x が他の数値の時には起きない。

これが、対角線論法の正体だった。g(x) を暗黙に二つのことなる方法で定義してしまったので、このふたつの定義がg(x0)でコンフリクトを起こしてしまっていたのだ。これで、ラッセルのパラドックスの原因を推測することができる。ラッセルの集合の内包的定義 x /∈ x は暗黙に、R ∈ R と R /∈R という相反する二つの定義をRに対して与えてしまっていたのだ。

ラッセルのパラドックスは素朴集合論の本質的な矛盾性を暴きだしたのではなく、集合の直積集合から二値集合への特殊な写像の定義の仕方を利用して、相反する二つの定義をRに対して作り出していただけなのではないだろうか。

さらに、上の表を眺めていると、パラドックスの発生は直積集合から2値集合への写像に限らないことが分かる。直積集合上の写像であれば、どのような場合にも、

g(x) = φ(x0, x) = ψ(φ(x, x))

のような2重定義をすると、

g(x0) = φ(x0, x0) = ψ(φ(x0, x0))

となって、ψのどのような関数に対しても、φ(x0, x0) が不動点になってしまうのだ。これが、自己言及文にパラドックスが発生する原因だ。したがって、「"対角式が証明不可能"の対角式が証明不可能」や「"対角式が真ではない"の対角式は真ではない」などの、φ(x0, x0) 型の命題が公理から構築できる体系では、その体系の中の証明可能や真であるなどの述語にパラドックスが発生してしまう。

一連のパラドックスについての記事はこれでおしまいだ。管理人は直観的にに理解しやすく強力な素朴集合論がラッセルのパラドックスでズタズタにされたのが残念でならなかったのだ。ラッセルのパラドックスを回避するための公理的集合論は、直観的には理解しづらく不満だった。また、ゲーデルの不完全性定理でもわかるように公理的集合論で組み立てた体系でもパラドックスの発生を防げなかった。また、上の説明でも、素朴集合論の矛盾を解消することにはならないかもしれない。専門家ではないのできちんとした議論をすることができない。

しかし、ラッセルの集合の内包的定義のどこにトリックが隠されていたのかなんとなく納得できたような気がする。ラッセルのパラドックスやその他のパラドックスを抱えていても、素朴集合のイメージは思考というものを考えるときに便利な道具であることには変りない。しかし、ラッセルのパラドックスのような厄介なシロモノに一定のイメージを与えることができれば、すこし不安が解消されるのではないだろうか。

追記 (2014.8.14)

ラッセルのパラドックスの原因は、内包的定義が自分自身に適用されたとき(自己言及)自分自身の集合を規定する規則が2つ発生しそれらが矛盾するためだ。内包的定義による集合の定義 P = { x | P(x) } が暗黙のうちに x ∈ P と P(x) 2つの条件が同時に成立することを要求しているからだ。ラッセルのパラドックスの場合 R ∈ R と R /∈ R が同時に成立しなければならないことになるので矛盾する。

ラッセルのパラドックスが矛盾ではなく、パラドックスになってしまうのは。それが同値関係を定義しているからだ。ラッセルの集合 R = { x | x /∈ x } の定義を同値関係で定義すると、

x ∈ R ⇔ x /∈ x

となる、従って x = R の時には、

R ∈ R ⇔ R /∈ R

となってパラドックスになってしまうが、矛盾ではない。R ∈ R ∧ R /∈ R であれば矛盾であるが、上のような同値関係では矛盾を導く事はできない。R が存在すれば矛盾であるが、Rが存在しなければ上の同値式が偽であるとは言えないからだ。

つまり、ラッセルの集合が矛盾ではなく、パラドックスになってしまったのは、内包的定義が同値関係を用いた定義だったからだ。

また、素朴集合論はけっして素朴ではない。素朴集合論では要素と集合との関係 a ∈ b しか定義されていないので、自分自身を要素とする集合 a ∈ a のような困った集合を簡単に発生させてしまう。

素朴集合論の内包的定義に対し、自分自身には適用できないとすると直感的に考えているような集合を作る事ができるが、そうなると数学で頻用されている再帰的定義が使いづらくなるし、要素と集合の間の階層構造を考えないといけなくなるため論理の運用がひどく煩雑になってしまう。数学の簡潔性を保とうとすると、パラドックスを抱えないといけなくなるという悩ましい状況になるのだ。
by tnomura9 | 2011-05-09 19:48 | 考えるということ | Comments(0)
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