ルーレットの赤の目が10回続いたらそのあとは黒の目が出る可能性が高いというギャンブラーの錯覚は本当に錯覚なのだろうか。
確率論の立場から言うと、過去の事象と現在の施行の間に関連性はなく独立なので、過去に10回赤が出ていても、そうでない場合でも現在の施行で赤の目が出る確率は2分の1でしかない。 極端に言うと一連の施行で延々と赤が出続けても確率論的には問題はない。過去の事象と現在の試行の間には何の関連性もないはずだからだ。 しかし、その一連の事象から赤と黒の出る確率を推測しようとするときにはたして、延々と赤の眼の出る事象から赤と黒の目のでる確率が2分の1であると結論付けることができるだろうか。 確率論に詳しいわけではないので、なんとも言うことはできないが、試行の間の独立性があるにも関わらず、過去の事象と次の試行との間に何らかの関連性を考えることができるのではないかという気がする。 時間の推移による過去の事実は、確率とは違って一回きりのものだ。この一回きりの一連の事象に赤と黒の目の出る確率の均等性が現れるために、無限に赤の目が続く事象に制限が生じてしまうということはないだろうか。つまり、一回きりの事象に赤と黒の同等性が現れるために、本来は存在しないはずの過去の目と現在の試行の結果に関連性ができてしまうのではないかということだ。 例えば、赤と黒の出現確率が均しいのであれば、局所的には赤が続いたとしても、十分に大きなサンプルをとればその中の赤と黒の出現頻度が同じになる可能性は高い。そうであれば、赤が延々と続くという事象の起こりにくさをそれによって正当化できるのではないだろうか。 こう考えてみると、歴史を動かす原理のようなものにも同じような考え方が適用できる。歴史を動かす法則性のようなものが見られないのは、それが、一回限りの事象だからだ。しかし、それらの事象をたくさん集めることによって、歴史の展開に共通する法則性のようなものが現れるてくるのではないだろうか。 ギャンブルの結果と歴史を並べるのは無理かもしれないが、そのなかに共通する時間の中で起きる事象の一回性による奇妙な法則があるような気がしただけだ。昨日も日が昇ったから今日も日が昇るだろうという帰納法には全く論理的な正当性がないにもかかわらず、帰納法による法則がうまく成り立っているのは、この一回限りの事象の中に確率の均等性が現れるという、確率論とは別の法則が関係しているからではないのだろうか。
by tnomura9
| 2009-11-06 19:49
| 考えるということ
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