2000年のOECDの学習到達度テスト(PISA)でフィンランドが1位になったため、中教審でも調査を行ったり、たくさんの人が視察にフィンランドを訪問している。しかし、どうもその視察の結論がフィンランドの事情とは、ズレがあるようなのだ。
日本から視察に行くと、たとえば、「現場に権限を移すことが競争力の強化になる。」などの結論になってしまうが、フィンランドの子供も教師も競争なんかしていないそうだ。 日本の場合、明治維新後も、第2次世界大戦の敗戦後も追い付き追い越せというのが大義名分だった。教育も競争力を強化するための有為の人材を育てるためのものだったような気がする。与えられた仕事を誠実に全力を尽くして遂行するというのが理想とされていた。 ところが、フィンランドの子供たちは競争などしない。宿題などもこれをやってきなさいと課題を与えてもやろうとしないが、この問題について調べると面白そうだけどと言うとたいていの子供がやってくる。授業時間もあまり長くない。一方で、町の至る所にある図書館に行ってよく本を読む。 フィンランドでは小学校に入ると、先生が、子供たちに「なぜ」という質問のシャワーを浴びせる。昨日なにをして遊んだのか、面白かったのか、なぜ面白いと思ったのか、どういうところが面白かったのか、それはなぜだと思うのか。それをやられているうちに子供たちは今度は自分からあらゆることに「なぜ?」という質問を発し始める。これが何を意味するのかは重要な問題だ。 フィンランドで教育された新人が入社して配属されてきたとする。ちょっとはにかみ屋だが人懐っこく、相手の話もよく聞く。自分の意見と違っていてもいきなり反対することもなく辛抱強く聞いてくれる。しかし、話しているうちに、自分の話がいろいろな観点から検討され、裸にされていくのに狼狽することになる。鋭い質問が遠慮なく浴びせられ、論点の弱いところ論理的に不整合なところが洗い出され、それに対してどうしたらよいかというコメントまでもらうはめになる。先輩の面目が丸潰れというところだ。 これは、この新入社員が特別生意気だからではない。彼はむしろ学校で教わったことを誠実に実行しただけだ。問題は、社会の側にこのような彼の誠実さを受け止める土壌があるかということだ。この先輩が自分の考えに対して固執せず、後輩の指摘で自分の考え方に新しい視野が開けたのを喜ぶ考えの人であったなら、この対話は彼にも喜ばしいものに感じられただろう。しかし、そうでなければ悩みのタネが一つ増えたことで胃が痛くなるだろう。 教育の目的は、子供を訓練することによって、その子が有意義で満足できる人生を送る手助けをすることだ。単に学力を発達させたり、産業の歯車になって必死に働くことのために教育が用いられてはならないのだ。 フィンランドメソッドで育てられた子供はフィンランドの社会では受け入れられ、賞賛されるだろう。しかし、それが日本の社会でもそうであるかは分からないのだ。国際的な競争の中では、即戦力となる若人は喉から手が出るほど欲しいだろう。しかし、教育の方向性をそれだけのために決めてしまっても良いのだろうか。 フィンランドメソッドを単に国際的な競争力をもった若者を作るための方法ととらえてもうまくはいかないかもしれない。実は、子供を変える前に本当に変わらなければならないのは大人の方だ。自分たちが作り上げた社会が本当に自分たちを幸せにしてくれる社会であるのかを考える必要がある。
by tnomura9
| 2009-10-09 16:48
| 考えるということ
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Comments(2)
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