以前から教育のフィンランドメソッドについてこのブログでも扱ったことがある。その革新性と要を得た方法に驚くとともに、なぜ、フィンランドはこのような教育革命を行えたのだろうと不思議に思っていた。
先日、NHKの放送でフィンランドの教育改革は29歳の文部大臣が始めたということが流れていたと家族から聞いたので、「フィンランド 29歳の文部大臣」でググってみたら。先頭に「フィンランドの教育改革 ‥‥千里眼‥‥」という記事が検索されそれに詳しくまとめられていた。 教育はすべての国民が平等に与えられるべき権利だという理念。そして、教育はすべての国民に無料で提供される。教育にあたっては一人も落ちこぼれさせないことを目標とする。教育学についての最新の理論を反映させる。教育法については現場の研究が反映されやすいシステムにする。教育者の質を確保するとともに十分な尊敬をはらう。教育者に研究を行なうための時間を与える。社会も子供の教育に積極的にかかわっていく等々、どうしてそういうことが実行できたのだろうと羨ましくなった。 教育の非専門家を集めた審議会の机上の論議で、教育の現場が混乱し荒廃していく日本の現状とくらべ、羨ましくて仕方がなかった。審議会に教育の専門家を参加させないということは、教育の現場に対する不信と軽視の表れではないのだろうか。 これからの日本の行く末を決定するのは教育の質のいかんに関わっているという切迫した認識がないのだろう。また、大人の社会でうまくいった方法を子供にそのまま与えればよいという、子供に対する教育の独自性と専門性を全く無視しているように思われる。自分の会社を全くの素人が運営すると考えたらどう思うだろうか。ところが、それを教育に関しては平然と行おうとしているように思われる。 明治の改革でも産業の育成は大学を中心として行われていったようだ。医療問題にしても大学を中心にシステムを作るのが最も効果的だ。量販店の経営者が病院を経営しようとしても、医師の確保ができなければ、基本的な運営すら行うことができない。 税金の使い方の無駄の議論よりも、制度の機能をよりよくするために、大学などの専門性の活用をどうするかという議論があってもいいのではないかと思う。専門家を押しのけて行政がシステムを管理するのではなく、どうすればよりよく専門家の専門性を活用できるだろうかという視点で行政がシステムを管理すべき時が来ているのではないか。 真に驚くべきなのは29歳の大臣がこの様な先見的な見通しを持っていたということだけでなく、周囲の政治家が不況の真っ只中であったにもかかわらずこの大臣の情熱に耳を傾け容認したことだ。大量の若者の失業者を抱える日本も待ったなしの状況にあるのではないだろうか。フィンランドというお手本があるのだから、フィンランドの政治家たちの決断ほどの勇気は必要ないだろう。その成果を指を加えて見ているだけというのは、許されないことではないか。
by tnomura9
| 2009-10-05 19:21
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