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内的な対話

テレビで人気の気象予報士が昼のトーク番組に出ていた。

もともとはファミレスの店員だったそうだが、その店が海辺にあったため、天気によって客数の変動が極端に大きかったそうだ。彼はそこで食材の発注を任されていたので、必死に天気予報を見て客足の予測をしなければならなかったのだが、その天気予報がよく外れるので発注の件で叱られることが多かったらしい。

それが嫌で、どうせなら自分で天気予報をしようと思いつき、気象予報士の勉強を始めたのだが、最初は全く何が書いてあるのかわからなかった。数の計算からして、小数点をどの位置につけたらよいのかも忘れていたからだ。そこで、書店で小学校4年生の計算ドリルを立ち読みすることからはじめて、中学数学、高校数学と勉強していったとのことだ。気象予報士の試験では高度の数学や物理の内容が試験に出るそうなので、小学校の算数から高等数学まで独学でやってのけたことになる。

おなじような経験は晩学をはじめた人から時々聞くことがある。学生の時にまるで分らなかった数学が不思議に理解できたという。子どもと違って大人になると、まったく理解できないものにぶつかってもどうすればそれを理解するための情報が得られるかを段取りできるからだろう。

高度に抽象的なものでも、結局はより簡単で具体的なものについての知識を積み重ねているだけなのだから、その積み重ねをやり直せばいい。こどもは、壁にぶつかったとき立ち往生してしまうが、大人は、どうやったらそこを突破するための条件を備えることができるかを考えることができるからだ。

目標とする知識が非常に高度な場合、それに到達するための知識の蓄積が大量になってしまう。この量に圧倒されてあきらめてしまうことが多いが、意欲が強くて手間を惜しまなければ、適切な段取りと根気があればかなりのものまで習得できるはずだ。

子供のときにはできなかった、不可能にも思える成果を大人になってから始めたら達成できたのはなぜだろうか。それは、子どもと違って大人は内的な対話ができるようになっているからだろう。理解しがたいものにぶつかったとき、どうすれば理解できるようになるだろうか、なにが不足しているのだろうか、何に似ているのだろうか、他と違う点は何だろうかなどと、心の中で対話をすることができるようになっている。

また、子どもと大人の違いは、そういう対話から思いついたことを実行してみる自由を持ち合わせているということだ。子供であれば書店に出かけるのにも移動の制限があるし、本を買うお金もない。大人の場合はそういうことは比較的簡単に行えるようになっている。

よく考えるというのは、このような内的な対話を十分に行い、それで思いついたことを実際に試行錯誤的に実行してみるということだろう。何か高度な知識を習得したいが、関連の書籍を読んでも何のことか分からないときは、少なくとも、どういう予備知識が必要で、どうやればそれを獲得できるかということくらいは大人として調査することが必要なのではないだろうか。
by tnomura9 | 2009-07-23 03:14 | 考えるということ | Comments(0)
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